自分嫌い否定文



人を好きだと思ったことがある。
この場合恋愛感情でとってもらっても構わないのだけど、
それだけが言いたいわけでもない。

ここ最近で思い始めたこと。
ずっとずっとずーっと自分が嫌いだと思ってきたけど、
たぶんそれは間違っていたんだな、ということ。
かといって自分が好きかといえばそうではないのだけど。



傍若無人なふるまいをして生きてきた割には人の目を気にして生きて来た気がする。
「嫌い」と思いつつ、その相手に常に「えーカッコしぃ」な態度で生きてきたのはどうしてだろう。
「なんと思われたって構わない」と思えなかったのはどうしてだろう。
答えは単純。
ワタシはその人に「好かれたかった」のだ。
きっと「好きだった」のだ。

ワタシは小・中学生時代、学校は「嫌い」だった。
劣等感ばかり先にたって、「えーカッコしぃ」でいることに大部分を費やした気がする。
「嫌い」に劣等感や悔しさが入り混じると、難解なものがさらに難解になる。
何ひとつとしてわからないまま得たレッテルを、鎧代わりにして学校に通っていた。
もっと欲しかったものがあったのに。

それを突然与えられて戸惑ったのが高校時代だった。
いや、本当は与えられたわけではなくて、持っていたことに気付いたのだ。
どれだけ自分が環境に恵まれてきたのか。
守りに守られていたからこそ、やわなレッテル製の鎧で生きてこられたのだ。

その一方で「愛する」の対義語が「無視する」であることに気付いたのもこの頃だった。

ワタシは「痛い」のが好きじゃない。
「苦しい」のも好きじゃない。
前述のように人の目も気になる。
別の項目で書いたけれど死のうと思ったって死ねやしなかった。
自分の存在を無視できなかったし、そんなこと到底できやしないのだ。
家族や友達や大切(「好きだと思っていたかどうか」とはちょっと違う)な人たちから忘れられていくことに、
「無視されること」にワタシは耐えられない。
だから、ワタシはワタシなりに自分の環境を愛しているのだと思う。
どこかで自分を愛してるのだと思う。
それは熱いやかんに触れたときに手を引っ込めるような「本能」のなせるワザなのかもしれない。
だとしてもそれはどうでもいいことだし、「事実」は変わらない。
ワタシは誰かを好きになるし、愛しもするのだから。



ただ、人よりちょっとやわで、甘ったれで、自分が嫌になる性質を持っているのが、ワタシなのだ。
結構生きにくい人間に分類されると思う。
けれども変えられる部分は変えて、変えられない部分はそのままで生きるしかない。
こんなこと考える余裕のないときも。
それでもきっと今までよりちょっと自分を大事にできそうな、
そんな今日この頃。


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