通り過ぎて


少し前から感じていて、最近確信に変わったこと。
どうもワタシの中で「ある時期」が過ぎ去ったようです。

11月にクモ膜下出血(といっても切れたのは脊髄内の血管)で倒れて、
救急車で運ばれて、
全く覚えていないのですが三途の川のほとりをお散歩して帰ってきました。
たったの2ヶ月弱なのに、突然日常生活からドロップアウトして帰ってきたら、何もかもが変わってしまったようです。
軽くウラシマ状態です。
そのとき感じたのが、「あぁ、いろんなものを抱えていたな」ということでした。
そして、救急車にはそれらのものを詰め込めなかったのだということ。
あらゆるものをワタシは通り過ぎていきました。

退院後、ワタシの生活は随分シンプルになりました。
すっかり体力が落ちてあれやこれやと手を付けることができなかったからで、望んでそうしたわけではないですが。
その時やらなきゃならないことをこなして、後は食べたり眠ったりといった生活することに費やしています。
退院直後はレポートと試験、今は劇団に関することが、生きる基盤以外の部分を占めている状態です。

なんだか入院前の生活が嘘のようです。
捨てきれず困っていたものが、いつの間にかどこかにいってしまいました。
こうなると自分には何もないような気さえします。
このHPをガンガン更新していたり、詩を書いていた頃の自分は、なんて憤っていたんだろう。
随分自分を切り売りするような詩を書きました。
どうしようもない気持ちを「詩」と呼んで眺めることで、やっとこさ、それを抑えていたようです
それに比べ、今の自分のなんて穏やかなことか。

入院中一度だけ、死んだかもしれないと思ったことがあります。
リハビリの先生に呼びかけられているのはわかっていて、
それに応えたいのに体が動かなくなり、
次第にに意識が遠のいていきました。
気がつくと、傍にお医者様と看護婦さんがいて処置を受けているところでした。
きっとあの瞬間に死んでいたら、自分が死んだことに全く気付かなかったでしょう。
でも次はそうじゃない。
また同じ状況に陥れば、今度は自分が死にかけていることがわかるのです。
…こう思ったときに、生まれて初めて、死ぬのが怖いと思いました。

人間こういう目に合うと、考えが変わります。
今まで鬱々としたものを書いてきましたが、今はそういうものを書くのに抵抗を感じます。
自分を粗末にするものを書くことは、自分を生かしてくれる多くの人たちをおざなりにすることに思えるのです。
「生きていたくない」(飽くまで「生きていなくない」。断じて「死にたい」とは別物)と思うこともありますが、
それを形にすることは、
ワタシが死にかけた時に手を尽くして下さったお医者様や看護婦さんたちへの冒涜ではないか、と。

次に何かを書くのなら、「作品」を書きたいと思います。
思うものの凡人のワタシには何が「作品」足りえるものなのかがわからないのです。
入院前はこのことで悶々としましたが、今はペンを置くことで決着がついています。
今ワタシがいちばんやりたいのは演劇であり、現在他の事を考えるだけのキャパがないことに気付いたのです。
これが近頃創作から遠のいている理由です。
人間は思春期に入ると詩を書きたくなる生き物なのだと何かで読みました。
もしかしたらワタシは思春期とやらを脱したのかもしれません。

決着はついたものの、不安でもあります。
書くことと読むことはワタシの原点です。
ワタシのすべてがここに帰結すると言ってもいいのです。
その一端が欠けるというのは、アイデンティティが欠けると言っても過言ではない気がします。

それでも今ワタシは演劇がやりたい。
だからそれに従います。
迷いや悩みがないわけではないですが、随分とすっきりした気分です。
いろんな激情に駆られていた感覚を懐かしく思ったりもします。
けれど、どうにもそこには戻れそうにありません。



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